2月12日は、故・司馬遼太郎さんの命日です。司馬さんが生前好まれた菜の花にちなんでに、「菜の花忌」として故人を偲ぶイベントやシンポジウムが開催されています。
司馬さんの小説の中で鎌倉が舞台となる代表的な作品が『義経』(文春文庫刊)です。また、『街道をゆく42 三浦半島記』(朝日文庫刊)では、源頼朝を中心に鎌倉武士の足跡を訪ねる紀行を記しています。
司馬さんが『街道をゆく』の中で取り上げられた鎌倉の情景を訪ね、写真付きでご紹介します。
極楽寺坂
鎌倉七口の一つである極楽寺坂について、司馬さんは二条という尼僧の鎌倉入りの古事に触れながら、自身で坂を上り下りした感想を述べています。
極楽寺坂は、坂の両側に、山の緑がせまっている。車がすくなく、歩道を歩く人もいない。ただの舗装道路ながら、声をあげてほめたいほどに閑寂である。
鎌倉の文化はこの閑寂さにあるといってよく、その原型は頼朝をふくめた代々の鎌倉びとがつくったものながら、明治以後、この地の閑寂を覚でてここに住んだひとたちの功といっていい。
『街道をゆく42 三浦半島記』p.119~120より
鎌倉が武士の都として始まったため、簡潔さや質実さを特徴とする都市の空気があったと思いますが、それが現代の鎌倉の人々にも大切にされて、引き継がれていると司馬さんは指摘しています。
御霊神社(鎌倉権五郎神社)
極楽寺坂を長谷方面に向かって下り終えたところに、力餅屋さんがあります。ここの名物である力餅は平安後期の武士である鎌倉権五郎景政にちなんでおり、その権五郎景政を祀る神社が店先から延びる路地の奥にあります。
鎌倉権五郎景政は、頼朝の祖である八幡太郎義家に従軍して奥州の清原家衡の籠る金沢ノ柵(現・秋田県横手市)を攻めた時の武勇伝で知られています。
右眼にささった相手の矢を引き抜こうとして顔を土足で押さえた味方の武士に対して、矢に当たって死ぬのは武士の本懐だが、面を土足で踏まれることは許されざることだとして怒り、切りかかったといわれています。
神社の前を江ノ電の線路が通っており、撮影スポットとしても人気のある神社です。
この神社について、司馬さんは次のような感想を残しています。
神社は、建物こそ小ぶりながら、総体に清らかに思えたのは、森の美しさのせいかと思える。背後も森で、参道の両側も森である。境内に、タブノキが枝を伸ばしている。
権五郎はべつに神になるような聖者ではない。
しかし生前のなみはずれたかれの生気が、いまはこのように美しい森に生っていると思えば―また森がすべてのいのちの源であることを思うと―祭神としてりっぱであると思わざるをえない。
同書p.185より
若宮大路と鶴岡八幡宮
由比ガ浜から鶴岡八幡宮に至る若宮大路と鶴岡八幡宮についても、司馬さんは武士の都を体現するものとして、造営の背景となった頼朝の思考について思いを巡らしています。
八幡宮の殿舎と広い道路一筋が頼朝の“首都”設計の背骨だった。
これを平安京から翻訳すると、八幡宮が内裏で、若宮大路が朱雀大路だという想像が、妥当におもえてくる。
関東の武家の首都の鎌倉にあっては、鶴岡八幡宮こそ内裏だったのである。
ただおかしみは、首都らしい設計が、“内裏”とこの大路しかなかったことである。他に尾鰭(おひれ)はつけなかった。
尾鰭をつけないというあたりに、頼朝の思考法がうかがえる。主題さえ世間にわかればよく、他は無用の装飾として無視した。くりかえすが、この狭隘な地に八幡宮が大きすぎ、それ以上に若宮大路は巨大道路で、全体とのバランスを欠いている。が、頼朝にとっての思想的要点は得ている。
同書p.95より
鶴岡八幡宮そのものについては、
鎌倉の鶴岡八幡宮は、山を背負い海に臨み、朱の色があざやかで、はればれとしている。
同書p.91より
と感想を述べています。
武家の都である鎌倉の造営に当たって、武神である八幡神を祀るきらびやかで存在感のある社と、そこに至るメインストリートである大路の造営のみが重視されていたことが伝わってきます。
頼朝墓所
鶴岡八幡宮の脇、鎌倉市の雪ノ下地区のなかに、源頼朝の墓がひっそりと建っています。
日本史上初の武家政権を樹立し、都市鎌倉の礎を築いた人物の墓にしてはいたって簡素な佇まいです。
かつては荒れ果てていましたが、江戸期の寛政年間に薩摩藩主の島津重豪が土地ごと買って改修したそうです。島津家では自らの家祖を頼朝に求めた伝承もあり、見捨てておくことができなかったのでしょうか。現在の墓は江戸後期のものです。
墓所を訪れた司馬さんは、改めて頼朝についての人物評価を記しています。
頼朝が独裁者だったことは、いうまでもない。ただその独裁は、船に船長はただ一人しか要らないという程度のもので、過剰なものではなかった。
人を、多く殺したが、ただその理由のほとんどが頼朝の脳裏のなかの一個の理念から出ていた。武家政治の理念というべきもので、関東のひとびとは頼朝のその理念をよく理解し、その一点で服していた。
後世のアメリカ合衆国大統領が法の下にいるように、頼朝は、かれ自身がつくった理念の下にいつもいた。
同書p.135より
(墓所への石段を:筆者加筆)登りながら、頼朝をひとことでいうと、“忍人”ということになるかもしれない、とおもった。忍人というのは、わるい意味である。
~中略~
忍という文字は、善と悪の両義性をもっている。耐えしのぶには、意思の力が要る。この意志力は、善である。
しかしそれだけのつよい意思をもつ者は、いざとなれば残忍だろうということから、“忍人”という場合、平然としてむごいことができる人ということになる。むろん、悪人のことである。
同書p.135~136より
頼朝が範頼、義経の二人の弟だけでなく、上総権介広常など決起以来の有力武将を殺してきたのも、武家による政権を打ち立て、維持していく上での脅威を取り除く必要からの所業であったと捉えられます。
また、司馬さんは、頼朝が樹立した鎌倉幕府の日本史上の意義を以下のように記しています。
鎌倉幕府がもしつくられなければ、その後の日本史は、二流の歴史だったろう。
農民―武士という大いなる農民―が、政権をつくった。律令制の土地制度という不条理なものから、その農地をひらいた者や、その子孫が、頼朝の政権によって農地の所有をたしかなものにした。
その影響は、人の心にあらわれた。
現実の農地が現実の農場主のものになったことで-たとえば彫刻も写実的になり、絵画や文学もそのようになった。
宗教において、その影響ははなはだしい。
~中略~
鎌倉の世になって、形而上的装飾がはやらなくなり、簡潔で、直截で、勁(つよ)いものになった。
同書p.45より
この人物(頼朝:筆者加筆)が、一一八〇年に挙兵し、一一八五年、平家を西海に討ち沈めるまでの五年間ほど、東国全体の武者たちにとって華やかな時代はなかった。
あるいは日本史そのものが―庶民が大量に舞台にあがったという点で―沸きたつような時代だったといえる。
~中略~
十二世紀末、頼朝を擁するひとびとが、鎌倉を拠点として以来、日本史に庶民が大量に登場する。東国武士という形をとって、『平家物語』や『吾妻鏡』にさまざまな貌(かお)をもって現れるのである。
同書p.81より
源頼朝は、義経を死に追いやったことから世間からは不人気ですが、歴史上の功績は偉業といえるでしょう。また、司馬さんの書物のおかげて、こうした認識をもって鎌倉を歩くことができることにも感謝したいですね。
今回、ご紹介したスポットは本ブログのウォーキングコースでも取り上げています。是非、ご覧ください。
▶▶▶ 所要時間6時間!鎌倉七口(切通し)を1日で歩いて回るとこうなった(極楽寺駅~朝比奈バス停)|コース no.15